ドビュッシーのバッハ評より

興味深かったのでメモ。

バッハには、音楽というものがそっくり全部含まれていますが、バッハは和声学の方式を軽蔑していました。本当ですとも。そんなものよりも、音響の自由なたわむれのほうが、彼には大事だったのです。平行し、交錯する音の曲線は、思いがけない開花を用意していました。そういう花は、バッハの書き残したおびただしい楽譜のどんなページにも、色褪せることのない美しい飾りを与えているのです。それは「惚れ惚れするようなアラベスク」いが花盛りという時代でした。だから音楽は、自然界の運行のうちにはっきりと書き込まれているところの美の法則に、自分も参画していました。これに対して現代は「鍍金(めっき)様式」が幅を利かせているといえそうです。(...)
バッハの音楽において、人を感動させるのは、旋律の性格ではなくて、旋律の曲線である。いや、そればかりか、数条の線が平行して動き、偶然に出会ったり、しめし合わせて出会ったりするとき、感動を呼び起こすことのほうが多い。(...)だからといって、何か不自然な、わざとらしい作為を含んでいる、などと考えてはならない。それどころか、オペラがやかましく泣きわめかせようと苦心する、あのこましゃくれた、哀れな叫び声よりもはるかに真実なものが、ここにはある。(...)あの感傷への傾斜に反りを合わせることなど、この音楽はかつて承知したことがない。(『音楽のために』)